た-くんの狂人日記

最近はほぼ読書日記

障害・病いと「ふつう」のはざまで

障害・病いと「ふつう」のはざまで

障害・病いと「ふつう」のはざまで

※なお、最近では「障がい」と言い換えることが多いですが、そうやって言い換えることで却って問題を隠してしまうような気がするので、ここでは敢えて昔の漢字表示を使います。
「障害」って何なんでしょうね?

障害者はいつも援助を必要としているわけではない。
障害を障害たらしめる原因を先に論じることの方が重要ではないか。

その通りだと思います。まぁ、これは身体の障害の場合を考えるとわかりやすいんだけど(例えば、僕はバランスが悪いので、何にも捕まらずに階段を下りるのはちょっと困難だが、捕まるところがあればさほど苦ではない。)、精神の障害でも同じようなことは言えるわけです(また僕の例ですが、一日八時間フルタイムで働くのは、過去の経験から言っても無理です。そこを、ワークシェアリングなどの工夫をしてもらえるのなら、一定程度働けるのかもしれない)。
また、最近流行の「ノーマライゼーション」ですが、何を以て「ノーマル」なのか決められない以上、金科玉条のように信奉するのも何かおかしな話になる訳です。
つまり、

障害は外側から課せられた条件であって、人の内在的な特徴ではない

のですね。

という風に、前半では言わば”障害学”の導入みたいな固いお話が続くのですが、その後は、いろいろな”見えない障害”(高次脳機能障害・軽度発達障害・慢性疾患etc...)の各論が続くので、興味のある部分だけ読んでも構わないと思います。(というか、僕はそうした。)

まぁでも、障害というのは不便かつ制約の多いものですが、決して自分自体の価値をおとしめるものではない、言い換えるならば「不幸」ではないのです。実際、障害者であるからこそ気づき得ることも多いですし。

ただ、効率や生産性のみを求める資本主義社会においては、このような障害者は使いづらいでしょうね。障害者に、効率や生産性を求めるのが無理、っちゅうもんです。
そういう意味では、自己決定を安直に自己責任に結びつけることの危険性も指摘していました。

また、興味深かったのは、現代では人々に共有されるべき物語がない、また、(一般に)人は物語にならないと聞いてもらえない(ことが多い)のですが、物語が全てではない、という指摘でした。物語には、笑いの要素も少なからずあると思うので、これは重要な指摘だと思いますね。結局、その辺のバランス感覚が重要になってくるんでしょうかねぇ。でも、オイラ、バランス悪いからなぁorz(脳の中の、平衡感覚を司る部位が受傷したらしい。よって、特に階段を下るときは手すりなどの捕まるところが必要になるんです。)