た-くんの狂人日記

最近はほぼ読書日記

元サルの物語

元サルの物語 ―科学は人類の進化をいかに考えてきたのか―

元サルの物語 ―科学は人類の進化をいかに考えてきたのか―

サルと言っても monkey ではなく、ape(霊長類)。この辺は日本語の不自由なところかなぁ、と思ったら、フランス語でも区別はないんだとか(実際、Google 翻訳で試してみたら、monkey も ape も singe*1 になった)。
本書のキーワードは"bio-cultural"だそうで、「生―文化的」という訳語を当てていた。ググってみたところ、「生物文化(的)」という訳もあるみたい。
こういう人間の起源を探る研究は、議論の的になりやすいのかなぁ?

科学は、真理を発見する客観的な手段として、文化の外側に立っている、というけれども――ふざけた言いぐさだ。

と切り捨てていた。確かに、研究する人の姿勢が反映されるのは避けられないから、著者の言い分もわからんではない。
wikipedia:進化も定義が人によって違うようで、本書では

自然的な相違の生成

と定義されていた。
まぁでも著者の語り口は結構過激で、

科学の歴史はアイデア、もの、関係の歴史である。発見者の歴史は単に長く続くメロドラマに過ぎない

オラも(理系の端くれだし)そうは思うけど、世の大多数の人間が人物に注目するのは仕方ないと思うなぁ。あんまりわめくと、炎上する?(実際前著の98%チンパンジー―分子人類学から見た現代遺伝学では、「98% でなくて 95% だ」*2と文句をつけてきた人がいたとか。)

適応は奇跡ではなくて、歴史の結果

wikipedia:リチャード・ドーキンスは(相変わらず)過激で、

遺伝子が唯一意味のある進化的単位であり、身体それ自体は単に「巨大な場所ふさぎのロボット」に過ぎない

と議論したんだ、とか。
wikipedia:ヒトゲノム計画は誇大広告だったそうだ。結果としてはそうか(オラはちょうどその前後入院してましたから、詳しくはわかりませんorz)
(ゲノムの)ランダムな変化は改良よりもむしろ欠陥の素、とも。言われてみればそうかも。(メリットもないのに)好き好んで放射線浴びる人はいないはずですよね。

メンデル遺伝学の最初と言える教科書のさわりの部分に「生き物は作られたのではなく、生まれたのだ」と書いてある(ことを見た)

おそらくあなたがチンパンジーを負かすことのできる唯一の強さ較べは、子供がやる指相撲のゲームだろう

そのチンパンジーは、いくら教えても指差しを学ぶことはないらしい。→ググったらこんな記事も:http://www.dogactually.net/blog/2012/02/post-194.html
その点は犬の方が優れている、ってことか。
学者にもまとめ屋と分類屋がいるそうだ。確かにそうか。オラはなり損ないですから…以下ノーコメントorz

種が自然の単位ではなくて自然/文化あるいは生=文化的な単位である(ことを認識せねばならない。)

著者曰く、こういうテーマに興味を抱くのは、

祖先と子孫の物語は、彼らが誰であり、近い親戚、遠い親戚、そして他人の世界のうちでどこに当てはまるかを彼らに告げるからである

から、人間ならば当然らしい。
でも訳者あとがきでも触れていたけど、本書は基本的にアメリカの読者に向けて書かれたもののようで、wikipedia:マタイによる福音書wikipedia:ルカによる福音書の違いなんかは既知のものとして書かれていて、その辺の敷居は高いorz
(2/7追記) 締めの言をデジタル書き抜き:

人間の脳、心、遺伝子プールは一般的に顕著に非適応的でまた可塑的なものである。

あ、そうだ。ヨミウリの書評:http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20161205-OYT8T50054.html
という訳で読み切ったから次の本にチャレンジしたいところだが、今週は(ほとんど*3)大学の入試のため図書館には入れないorz

*1:オラは仏語選択じゃないし、読み方は知らない。

*2:そのイチャモンもどうなの?、とは思うけど。

*3:前出のイチャモンにならえば、70%強orz